神道についての考察
神道(しんとう)又は随神(かみながらのみち)、惟神(かんながら)と日本固有の道を漢字によって表現したまでのことであり、本居宣長翁は『直毘霊』の中で次のように語っています。
『実(まこと)は道あるが故にてふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり』
日本は本来よく道が行われていたからその必要がなかったのだと説いています。
更に『道の言挙げのないことが、日本の自然の姿である』とも述べています。
神道という用語は、漢籍にも仏典にもあるり漢籍においては、支那の神道という言葉は『不可思議な道』とか『自然の道』と言った意味があり、また仏典では『六道の中の天道、阿修羅道、鬼道の三を総称して神道という』とあります。
仏教における神道観は、仏や菩薩の永劫に対して有情の精霊であり何時は墜落する運命にある低い位の神魂だと語っています。
吉田兼倶の『唯一神道集』によると、神道こそが根本であり、儒教が枝葉で、仏教はその花実であると反本地垂迹説を力説している。
支那の不思議な道、仏教の精霊の道、朝鮮の墓所に通じる道など『神道』という用語は各国によって異なる意味で用いられています。
日本における神道の意味するところは、『カミ』と訓みえることから祭祀が中心であり、その神は『天照大御神』を中心として天神地祇八百万の神々の総称なのであります。
少し話は飛躍するかもしれないが『日本神道』は、日本の混乱した時期において日本民族に自覚され、青史のうえに何回も抬頭するのです。
明治維新の大業は水戸学を中心とした国史の研究成果と、外来思想から離れ日本民族性と日本の道を提唱した国学者たちの活動によって展開されました。
明治天皇御詔勅に『神祇を崇め祭祀を重んじるは皇国の大典にして政教の基本なり』とありますことによっても、神社は国家の宗祀であるのです。
神道信仰の強調された時代は日本民族意識の自覚時代であり、そのような時代は常に国難の時代であり、そして国威の発展を示す時代でもあるのです。
史実の語るがごとく、復古、維新が日本の文芸復興であり、日本国家として日本国民としての自覚の結集が、神道信仰によって表されているのです。