神主が語る神道と心霊の話

神道、神霊、霊学、霊術の話

宗教というものに抱く幻想

キリスト教はすべてを、『神』と『聖霊』と『子』と『天使』と『悪魔』によって集約した『聖書』により、教会の権威を確立して人民を縛り、弾圧や迫害がなされました。




仏教は『諸行無常』、『諸法無我』という思想から、寺院と僧を維持するために無量の非生産階級の人間を生み、無量の浄財を求めた。




民の意思は弱体化して、更に『霊魂の因縁』に恐怖し、『現実否定』の思考により諦めの思想を人に植え付けた。




支那の『道教』や『儒教』は、帝国主義の土壌となり大衆愚民化をおこない、戦乱をもたらして非道義極まりない国家と化したのであります。




このように宗教とは、良かったことより悪かったことの方が多いのです。




精神主義一辺倒の教えは、このような愚かな道をたどることが多いのであります。




神道は宗教ではありませんから、『生々化育』、『生成輪廻』、『修理個性』、と常に新陳代謝を繰り返し現実を重視し、『曽我一如』、『顕幽一体』、『是身即神』という思想を生んだのです。




昔、鞍馬寺の信楽香雲師がおっしゃっていました『宗教という言葉を改めなければいけない』と!。

禊について

日本古来の神道の行法である『禊』について語ります。(入門編)


古事記のなかで伊邪那伎乃命が黄泉の国より戻り、穢れを祓うために禊をしたのが初めてで、以来我が国では、老若男女、身分を問わず現在まで続いています。


神道行法として、神官が実践し、山岳修験者の行法として、広く行われてきました。


そして禊を近代以降体系化し、埋もれていた行法を復活した人物が、『川面凡児大人』です。



川面の協力者でもあった明治神道界の重鎮『今泉定助』翁が尽力の末、神社庁の正式行法として取り入れられました。


禊の要諦は、体を硬直させずにいかに保つことができるかという点にあります。そのためには下炭田に重心を置き肛門を占めて呼吸を静かに長く深く行うことです。


この状態の意識のなかで神霊に遭遇することもあります。


禊は心身を甦らせ活性化しますが、その本質は神霊との遭遇することにつきます。


変性意識に至る事が禊の真の目的なのです!



禊を続けることで、日常的に生ずる穢れを祓い、肉体と精神の再生をもたらすのです。


然し今では、川面凡児の創設した『稜威会』でさえ、禊の本質を理解している道彦は一人もいなくなりました。


単に精神論や翁の残した書物の教えをオウムのように唱えているだけです。


はたから見ると滑稽な、只の我慢大会か精神修養に留まってしまっている。


本当に嘆かわしいことです。

これ人の道にあらずしで神の道を歩む

人の前で、他人を否定しないこと。



第三者がいる前で、本人を批判しないこと。


人から自分や自分の家族や自己の信念を批判されても怒らないこと。


先輩や年長者を敬うこと。


物事の道理を重んじ、筋道を違えないこと。


これ全て、人の道にあらずして神の教えに従うことにある。




京都伏見の明治天皇の御陵にて